台湾新幹線 Information

TVOテレビ大阪のドキュメンタリー、
「海を渡った新幹線 〜開業までの1000日を追う〜」
をご紹介しています。


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2007年3月21日、TVOテレビ大阪の番組 「海を渡った新幹線 〜開業までの1000日を追う〜」が放送されました。 これは日本の新幹線が始めて海外に輸出されたことを紹介するドキュメンタリー番組ですが、その陰には多くの日本人技術者達の苦闘があり、大きな困難を乗り越えての戦いはとても感動させられました。 

このような良い番組はぜひ、将来を担う日本の子供達にも見てもらいたいと思っております。 また、このような社会に対する奉仕を通して、世界という広い視野を持った日本人に成長してもらいたいという思いでこの番組を紹介させていただきます。

本当は動画でお見せできたら一番良いのですが、著作権の問題がありますので、まずテキストに起こして、更にリライトさせていただきました。 宜しくお願い致します。


プロローグ


総事業費およそ1兆7000億円。 民間の鉄道事業としては世界最大規模の台湾新幹線が開業しました。 日本の新幹線が初めて海を渡り、台湾の大地を疾走したのです。 そのデザインは亜熱帯の島を象徴するような鮮やかなオレンジライン。 この車両は東海道山陽新幹線を走る700系をベースに作られています。

笑顔で車窓から外の景色を楽しむ子供達。 ノートパソコンで仕事をするビジネスマン。 そしてインタビューに答えた家族連れ。  「快適で穏やかな走りですね。」 そして彼は親指を立ててこう言います。

「台湾の誇りです。」

台湾のマスコミたちも、時速300キロでもコップの水は揺れない乗り心地の良さをリポートしています。

台湾新幹線は台北、高雄間の全長345キロ。 人口が集中する台湾西部を縦断しています。 まずは台湾新幹線の起点、台北駅。 地下にある在来線と並んで新幹線のホームが設けられました。 台北は台湾の中心地。 台湾の総人口およそ2300万人の一割以上がこの町に集中しています。 そして台北から南西190キロ、台湾第3の都市、台中。 人口80万人のこの都市は台湾中部の一大商業都市です。 これまで在来線では台北から2時間15分かかっていましたが、新幹線では55分で到着することができます。 

更に台北からおよそ220キロの嘉義駅。 この付近で台湾新幹線は北回帰線をまたぎ、亜熱帯から熱帯地域へと入って行きます。  

 終点は高雄。台北から1時間40分の距離です。 高雄は人口150万人。 台湾第二の都市で世界有数のコンテナ港を抱える港町です。 駅舎はまるで空港の出発ロビーのような明るく広々としたコンコースが特徴です。

台湾は新幹線の開通で台湾全土が一日生活圏となりました。 この新幹線が将来にわたってビジネスや観光に及ぼす経済効果は計り知れないものになります。

台湾新幹線は当初、フランスを中心にヨーロッパ製の高速鉄道を導入する計画でした。 しかし、後に日本の新幹線が逆転受注に成功。 その結果、予期せぬ様々な問題が発生し、それを一つ一つ克服していかなければなりませんでした。 台湾新幹線の開業までにおよそ2000人もの日本人スタッフがこの大事業に参画しました。 逆転受注から6年あまり、幾度もの開業延期を乗り越えて海を渡った新幹線。 その夢にかけた男達の1000日を追いました。



タイトル

海を渡った新幹線 〜開業までの1000日を追う〜




海外の鉄道車両の輸出でキャリアを積み、台湾新幹線で手を上げる


台湾新幹線国際工程社長(TSIEC)後藤 孝臣氏

後藤さんは総合商社、三井物産からの出向で、新幹線システムの輸出を行う現地法人、台湾新幹線国際工程(TSIEC)の社長です。 商社時代もモロッコの電気機関車、シドニーの通勤電車鉄道に関わる仕事で世界を飛び回ってきました。 

後藤社長の話
「もう私も鉄道の分野の仕事が長いものですから、ぜひ、この台湾新幹線をやってみたいという強い気持ちがありまして。 それでブラジルからですね、ぜひ私がやりたいです、、って手を上げまして、それで、採用していただいたというわけです。 とても嬉しかったですね。」

TSIECは新幹線の輸出全般を取りまとめるために設立された会社です。 その取引先は台湾新幹線を運営する民間会社台湾高速鐡路。 商社時代は鉄道車両の輸出でしたが、今回の新幹線の輸出とは車両だけではなく、システム全体(システムインテグレーション)の輸出であり、しかも、受注の経緯から、ヨーロッパのシステムが混在しているという非常に困難を極めるプロジェクトになりました。 

後藤さんはTSIECの社長として様々な交渉を円滑に行い、事業を計画通り進めることが仕事で、台湾高速鐡路(以下、台湾高鐡)にしばしば足を運びます。 台湾高鐡には多くの欧米人技術者が在籍しており、これは当初、台湾新幹線をヨーロッパの技術を導入して走らせる計画だったからです。 このため、基本設計や安全基準などでヨーロッパ仕様が色濃く残り、それが台湾新幹線のベースとなりました。



基本設計やヨーロッパの安全基準で思わぬ苦労が


川崎重工 兵庫工場。

 台湾新幹線向けの鉄道車両700Tはここで設計され製造されました。 川崎重工は日本有数の鉄道車両メーカーで、100年以上の歴史を誇ります。 今まで様々な形式の新幹線車両がここで製造されてきました。 

川崎重工車両カンパニー 石塚 理氏
石塚さんは川崎重工のミスター新幹線と呼ばれ、700Tのプロジェクトリーダーを務めました。 石塚さんは新幹線車両の製造に長く携わってきましたが、700Tには特別の感慨があるそうです。  

石塚さんの話
「この仕事をずっとやってきまして、新幹線を特に中心に25年以上やってきたわけですけども、そして初めて新幹線が海を渡るという仕事に携われたということは非常に今、光栄だし、幸運だとそう思っています。」

700Tは東海道山陽新幹線の700系をベースに最高速度300キロの営業運転が可能なように設計されています。 石塚さんは当初、この仕事は700系の実績から順調に行くと思っていたそうです。 しかし、思わぬ困難が待ち受けていました。 

台湾高鐡がヨーロッパで採用している安全基準を元に車両の設計を求めてきたのです。 例えば車両火災に備えて700系で採用されている繊維素材ではOKがでませんでした。 その為、これまでは採用したことのない不燃化素材を組み合わせて基準をクリアしました。  また、それから更に700Tの性能向上のために、700系を基本から設計しなおさなければなりませんでした。

石塚さんの話
「東海道山陽新幹線のぞみでは、最高速度285キロになっていますが、この仕様は300キロということで、そのやはり15キロですけれど、そのためにですね、出力を向上しないといけない。 それからまた、非常に急な勾配があるので、そのブレーキ対策とか、そういうことも考えないといけない、、ということで、まぁ、見た目は比較的700系によく似ていますけども、中身はずいぶん変えたところがあります。」

川崎重工の社員の努力の結果、ついに700Tはその姿を現します。 台湾の人々が700Tを始めて見たのは2004年5月。 700Tは専用に改造された貨物船で高雄港に運ばれました。 そして最初の第一編成が到着した時にはパレードが行われ、大勢の市民の歓迎を受けたのです。 その市民の歓迎ぶりから、台湾新幹線への期待の大きさが伺えました。



軌道と架線の敷設工事を日本語で訓練


台湾新幹線プロジェクトマネージャー 西澤 隆人氏

西澤さんは技術全般を取り纏める責任者で三菱重工からの出向です。 今までは主に化学プラントの建設に携わってきたのですが、台湾新幹線は西澤さんにとって、これまでの仕事とは全く違った作業管理となりました。 どんなビッグプラントでもその作業は一箇所で進められるのですが、台湾新幹線はそれが途切れることなく345キロに及ぶのです。 それでまるで鉄道ダイヤのような管理工程表を組み立てました。

台湾新幹線の安定した高速運転を支えるのは、まずは基本の軌道と架線です。 西澤さんは高速運転によって大きく振動したり、磨耗すると、パンタグラフが離れて事故の原因にもなると言います。 

西澤さんの話
「軌道と、電車と、それから上の架線の組み合わせがきちんとできていないと、もちろん、安全性は守れませんし、第一乗り心地がですね、、。」

そこでまず最初に、軌道と架線の敷設工事の訓練のために、車両基地内に300メートルに渡って、仮設線路を設け、日本人技術者がその指導にあたることになりました。

西澤さんの話
「日本と同じやり方で、それで日本語でですね、左よし、右よし、前方よし、、と言う、とにかく、工事の期間、皆さん日本語使ってますから、台湾人の方はまるで日本人かなと思うぐらい、もうきちんと規則を守って、そこで徹底してトレーニングして、日本と遜色のないものができてるということが判った時点でですね、これは前線に行けるんじゃないかなと思ったわけです。」

2004年10月からの試運転に向けて、軌道と架線の敷設工事は順調に進んでいきました。 しかし、ヨーロッパ基準にあわせた安全性を実証する書類の作成と承認に手間取り、。 試運転に向けて台湾交通部の承認を受けたときにはすでに年が変わり、2005年を迎えていました。 



700Tが初めて台湾で走行した歴史的な日


2005年1月26日。 燕巣車両工場の一角にある総合試験事務所は朝から張り詰めた空気に包まれていました。 いよいよ初めて700Tが本線上を走るのです。 台北からTSIECの後藤社長も駆けつけ、詰めの打ち合わせを行いました。  試験走行を担当するのは5人の日本人運転士たち。 みんな真新しい制服に身を包んで点呼が行われました。 

車両基地をゆっくり出てくる700T。 しかし、架線にはまだ電気が送られていないので、ディーゼル機関車に牽引されての出発です。 やがてディーゼル機関車が切り離され出発を待つのですが、出発時刻の午後2時になってもまったく動く気配がありません。なんと、車両工場内にある変電所の受電トラブルで、25000ボルトの安定した電力が供給されないのです。

 結局、5時間も現場に釘付けになった午後7時、やっと電気が送られてきました。 もうその時間はあたりは真っ暗。 700Tはヘッドライトをつけ、いよいよ出発です。  2005年1月26日19時30分、 ゆっくりと台湾の大地を走り出す700T。  時速は僅か30キロですが、この日が700Tが初めて台湾で走行した歴史的な日となりました。

そして翌日、台南駅で試運転の開始を祝って記念式典が開かれました。 待ちに待った試運転です。 挨拶にたった台湾高鐡の 殷(いん)会長は、試運転開始は日本の新幹線車両が初めて海外を走る歴史的な出来事だと述べました。 

TSIECの社長、後藤さんの話
「台湾中が非常に注目しているということで、いろんな問題ももちろんありますけど、まず、電車が走ったということですね、非常に大きな一歩を今日達成することができました。」 後藤社長にとって試運転開始は大きな節目となりました。 次なる目標はいよいよ最高時速300キロの走行です。 



ついに最高時速300キロを達成。 スタッフに笑顔とそして涙


元JR西日本運転士 足立 良一氏

足立さんは0系から500系まで東海道山陽新幹線を走る列車のハンドルを握ってきました。 今回の300キロ走行も足立さんがハンドルを握ります。 

足立さんの話
「やっと(300キロ)出せるなという気持ちですよね。 一つの到達点というかね。 やっぱりこっちに来た目的がやっとひとつかなうという感じですね。」

2005年10月29日 燕巣車両工場 
いよいよ700Tが時速300キロに挑む日がやってきました。 出発を前にして入念に車両の点検が行われ、ミーティングでは安全の再確認。 この日は各セクションの責任者全員が試験列車に乗り込むのです。 台北からTSIECの社長、後藤さんもやってきました。 

そして700Tの出発。 台湾の大地を疾走する700T。 足立運転士はノッチを入れ、更に加速していきます。そして時速289キロ。 東海道新幹線の最高時速を越えました。  700Tの車内にはさまざまな測定器が並んでいます。 モニターに映し出される画像を見ながら、パンタグラフは架線と正常に接触しているか、また、架線から離れることはないかを確認。 車輪とレールの接触状態も厳しく確認します。 時速300キロの安定走行には欠かせない列車の揺れ具合を見る振動測定。 刻々と出されるデータに一瞬たりとも目を離さずチェックするスタッフたち、、、、、

TSIEC試験運転副本部長 中川 正也氏

片道60キロの試運転を終えると各セクションの担当者からデータの報告を受けるのは中川さんです。 その結果を踏まえて更に速度を上げるかどうかの判断をするのです。  各セクションから報告されるデータの内容にはどうやら何も問題はなさそうです。

いよいよ中川さんの判断が下りました。
「えー、次はですね、10キロずつアップということで、W線6550まで290キロ。 通過後300キロに速度を上げて折り返し運転をしたいと思います。 宜しくお願いします。」  

「発車10秒前。」

運転席で足立運転士がカウントします。 そして警笛と共に時速300キロへの挑戦が始まりました。

ゆっくりと動き出す700T。

「9006Tです。 えー、燕巣を13時39分の発車です。 はい、宜しく。」

時速300キロに達するまでには距離にしておよそ15キロを走ります。 
計器類のモニターに見入り、緊張するスタッフ。

「、、、、速度、224、、、」

計器を読み上げる声が刻々と速度を知らせます。 足立運転士はノッチを入れ、更に速度を上げていきます。

「速度299、、、えー、300キロ、300キロです!。」

  その時、車内では大きな歓声が響きました。 

「300!、、300!」

大きな拍手とお互いに握手するスタッフたち。 その顔は皆、笑顔で溢れています。 女性スタッフの目には涙。 多くの仲間たちとの苦労が今、実ったのです。

TSIECの社長、後藤さんの話
「長かったですけど、まぁ、あの、嬉しいです。ほんと。 これでほっとしました。 300キロね、もう自信はありましたけどね、やっぱり嬉しいですよ。 良かったです。」

2005年10月29日、700Tは台湾の大地で時速300キロを達成しました。 



喜びもつかの間。 まだまだ続く開業までのトラブルと大きなプレッシャー


そんなある日、大変な事が起こりました。
なんと軌道横にし敷設してあったケーブルが切断、盗難されてしまったのです。 切断されたケーブルは総延長にして300キロ。 被害額は30億円にも及びました。 

TSIEC第2区施工総監督 栗原 勉氏

通信を担当する東芝の栗原さんは、ケーブル盗難に頭を悩ませていました。 切断されたケーブルは繋ぎ合わせることはできず、新たに敷設しなければなりません。 工事費は全てTSIECの負担になります。 

栗原さんの話
「破線は大したことはないですけどね、盗まれてもすぐにリプレイが効くんですけど、この中に埋まっているケーブルはFOCって言ってですね、ファイバーオークテックケーブルですね。 光ケーブルだとか、それからメタリックケーブル、、通信用の30対とか60対とかのですね、非常に高級なケーブルが入ってますんで、それはなかなか再手配、、、納期もかかりまし、切られると非常に大きな痛手なんで、それはもう警備のお金にはかえられないです。」

栗原さんは沿線の警備を強化すると共に、高圧電流を流して対抗することにしました。

更に追い討ちをかけるように、運行管理の指導に当たっていたJR東海は日本の新幹線システムがヨーロッパ方式と混在となったことに対し、運転指導の責任が持てないと台湾高鐡に申し出たのです。 

これでは開業までに運転士の養成は間に合いません。 このため、台湾高鐡は高速鉄道の運転経験がある、フランスの元TGV運転士で対応することとなりました。 台湾新幹線のハンドルを握るフランス人運転士は38人。 高速鉄道の運転経験があると言ってもTGVは電気機関車。 電車の運転は未経験です。 この為、加速、減速の性能が違う電車方式の新幹線車両を1から勉強することとなりました。 

車両の輸出には豊富な経験と実績のある後藤社長ですが、新幹線システムの輸出は初めて。 しかもヨーロッパ基準を一つ一つクリアしていくという途方もない仕事の量をさまざまなプレッシャーと戦いながらこなしてきました。 台湾新幹線のコアシステムだけでも3300億円。 TSIECの社長として後藤の責任は大変重いのです。 



台湾新幹線引渡しへの大きな山場。 シナリオ試験


OCC オペレーション・コントロールセンター。

2006年7月からは全線試運転。いよいよ台湾高鐡に引き渡す最終段階に入りました。 この日はシナリオ試験が行われました。 シナリオ試験とは営業ダイヤを想定して複数の列車を走らせ、OCC、運転総合指令のプログラムどおりに列車が運行しているかを確認するのです。

東芝プロジェクトマネージャー 江本 隆氏

シナリオどおり列車が運行しているか目を光らせる江本さん。 江本は東芝で列車制御システムを担当しています。  7分間隔で台中駅を出発する700T。 OCCの運行表示板には列車番号、位置、進路が刻々と表示されていきます。 

鳥日(台中)車両基地

続々と車庫から列車が出発します。 OCCは安全運行の要なのです。 

「10時20分57秒、通過しました、、、」

江本さんの話し
「今日はですね、ここ中央から列車を制御すると同時にですね、駅でも監視してますし、それから台中の近くにあります、鳥日の基地でも列車を出したり、また取り込んだりします。 それらも含めてですね、全路線にまたがってですね、試験をしている状況です。」

突然トラブルが発生したようです。 嘉義駅で停車中の列車の進路設定ができなくなったのです。  進路設定が確認されないと列車は動かないシステムになっています。 どうやら、待避線から本線に入るポイントが故障したようです。 異常事態が起こった場合、列車の運行をどのようにするかはOCCが決定します。 

江本さんの話し
「我々は何としても、やり遂げないといけないと思いますし、台湾のお客さんが喜んで安心して利用していただく新幹線に持っていきたいと思っています。」

またOCCでは日本の新幹線では採用されていない、双方向運転の試運転も行われました。 双方向運転とは、万一先行する列車がトラブルで止まった場合でも、渡り線を通って反対方向の線路に入り、後続の列車が運行できるシステム。 わかりやすく言えば、例えば上りの列車が駅ではない場所で停止した場合、後続の列車が下りの軌道を使って前の列車を追い越すことができるシステムです。

この為、信号システムなど、膨大な情報量のATCが運転室には搭載されています。 台湾新幹線では全線に渡っておよそ20キロごとに上下線を繋ぐ渡り線が設けられました。

2006年9月からはフランス人運転士による試運転に入りました。

  元JR西日本運転士 足立 良一氏

足立さんの話
「機関車と電車とは違いますからねぇ。 まぁ、その辺だんだん慣れてはきてるでしょうけども。 やっぱり動力集中と分散との違いはどうしても癖はぬけんでしょうねぇ。 まぁ、彼ら曰く、この電車はgoodやなぁ、、、と。 加速もいいし、、、。」

フランス人運転士の話
「とても性能の良い電気ブレーキです。 電気機関車と比べて早く停止することができます。 この駅間には非常に適していると思います。」 

さて、シナリオ試験も無事に終わり、運転士の訓練も進み、ようやく引渡しの目処がたったと思われましたが、台湾新幹線はまた新たな関門に直面してしまうのです。



トラブルが相次ぎ開業延期。 仮営業には一ヶ月間の無事故運転が条件


台湾新幹線の開業予定日は2006年10月31日だったのですが、しかし、スタッフの不慣れや乗務員の訓練不足によるトラブルが相次ぎ、開業延期になってしまいました。 

運輸関係の指導監督を行う立場の台湾当局の交通部は開業の前提として台湾高鐡に対し、1ヶ月間の連続無事故運転を指示しました。

台湾高鐡では連日、緊張した試運転が行われました。 試運転の本数は開業時の一日19往復だけではなく、過密ダイヤを想定して10分間隔での試運転も行われました。  車掌、客室乗務員も営業運転さながらの訓練が行われました。 

一ヶ月間無事故運転の達成日は12月23日。 後藤社長らは祈る思いでそれを見守りました。

そして2006年12月23日 板橋駅。
この日、後藤社長と西澤さんは台湾高鐡の林(りん)副社長と最終の試運転列車に乗車し、一ヶ月無事故運転を確認しました。  

台湾新幹線の幾度にも渡る開業延期。 後藤さんは日本の新幹線システムが一括して輸出できていれば、もっと早く開業できたとの思いがあります。 しかし、一方で台湾の事情や現地化を求める意向も無視はできないと考えていました。

後藤社長の話
「今日で一ヶ月の無事故運転を達成してくれたんで、もう我々としては感無量です。 やっとこれで合格してくれたらですね、もう間もなく開通しますから、早く開通してほしいなとほんと心から思っております。」  

翌24日 台湾交通部は記者会見を開き、年明けの仮営業運転を認可しました。 

台湾交通部次長 何 煖軒 
  「交通部は12月24日に開いた会議で安全委員会が台湾高鐡に要求した改善すべき項目を全てクリアしたことを確認しました。」

2007年1月5日から台湾高鐡は運賃を半額にして仮営業に入りました。 しかし、切符の発券システムや券売機、そして自動改札機のトラブルが相次ぎ、当局からなかなか本営業の認可が下りませんでした。

正式開業を控え、川崎重工の石塚さんは左営の車両基地でメンテナンスの様子を視察しました。  車両のメンテナンスは全て日本式で行われています。 石塚は一日も早く台湾での人材が育ち、彼らが700Tを支えることを願っています。 



いよいよ本営業の開始。 そしてエピローグ


2007年2月1日 板橋駅は切符を求める人々で殺到しました。 2月18日から始まる旧正月の帰省に新幹線を利用する人たちです。 

この日、台湾新幹線は運賃を半額にして運行していた仮営業を終え、本営業に入りました。  台湾新幹線が新しいインフラとして台湾の地に根付くのか、この日から試されることになります。  本営業の1番列車 午前7時板橋発の一番列車は満席。 仮営業に入った1月5日と同様セレモニーは一切行われず、静かなスタートとなりました。 

台湾高鐡社長 欧晋徳
「このプロジェクトは日本のみならず、欧州、そして世界各地から専門家が来て力を入れてもらっているので、今日開業ができ、皆さんが喜んで乗車している姿を見て嬉しく思います。」 

板橋を出発した一番列車は定刻の8時30分に高雄に到着。 

川崎重工車両カンパニー 石塚 理氏
「試運転のときはね、何十回ってわたしも乗ってますけど、営業運転で乗りますとですね、やっぱりなんか故障があったら大変だということで、むしろ非常に緊張して 乗ってましてね、今日見ますとですね、ほとんど個人客、あるいはビジネス客、ということで、早くも新しい交通機関として認知されたのかなと、そういう強い思いがして非常に嬉しかったですね。」

この日、台湾南北を結ぶ新たな大動脈が誕生しました。 台湾の人々の新幹線への期待は大変熱く大きいです。 一方、中国本土でもJR東日本のE2系「はやて」をベースにした車両が在来線の高速化を担って走り出しました。 飛行機に比べ環境に優しい大量輸送機関として新幹線に勝るものはありません。 21世紀は高速鉄道の時代とも言われています。 

後藤社長の話
「台湾への輸出としてやったんですけど、まぁ、お客さんも非常に厳しいお客さんでしたしね。 というのは、台湾だけども、お客さんの中にはほとんど欧米人がやっててですね、その人たちと一緒にやったわけですよね。 まぁ、ですから非常に苦労しましたけど、力がものすごくつきました。 もう後はどの国に行ってもですね、もう大丈夫ですよ。 もうどこ行っても完璧な高速鉄道が輸出できると思います。」

日本と台湾の友好の証である台湾新幹線。 その異郷の地に新幹線を走らせる夢にかけた男達。 時速300キロの高速鉄道は世界で台湾が5番目。 日本の新幹線が世界市場に出て行けるか、後藤さんらにとって台湾での経験がその礎となります。

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